鹿の解体をして、食べるということについて考えた
「鹿が獲れたらしいので、今から捌きに行きます。」
5月半ばの早朝、ビヨンド自然塾の代表の室田さんから、そんな連絡がありました。
眠い目をこすりながら車に乗って、知人の猟師さんの元に向かうと、、、
「鹿!!」
死んでから数時間経っていたので、表面はすでに冷たくなっていました。
早速持参した包丁で、解体を始めます。
実は、鹿の解体をするのは人生で2回目。
京都の友人の家でも一度解体をさせてもらったことがありました。
今、地方では鹿の数が増えていて、害獣駆除という名目で鹿猟の必要性が高まっています。一方で、猟師は高齢化が進み、後継者不足が続いています。
高齢の猟師さんがわざわざ大きな労力と時間をかけて鹿を解体するのは割りに合わない上に、そんなに鹿肉があっても食べきれないということで、ほとんどは屠殺されるとそのまま山に置いていかれるそうです。
そのため、田舎では、猟師さんのご好意で鹿を頂けるということがよくあるみたいです。
初めて解体した鹿の、綺麗な澄んだ目がとても印象に残っています。
魚を捌く時もそうですが、鹿の解体も、肉を取り出す前にまず内臓をかき出す必要があります。
内臓をかき出すのはかなり生々しい光景で、初めて体験したときは中々の衝撃でした。
今回は、自分でも意外なくらい冷静でした。内臓ってこういうつくりをしているんだ、と観察するくらいの余裕がありました。
「その鹿は中に子供がいるだろうねえ。」
そう言われて、複雑な気持ちになりつつ解体を進めると、、
中からバンビのような子鹿が出てきました。まだ母親のお腹の中で眠っているつもりなんじゃないかと思うほど、穏やかな表情をしていました。
「ほんとに、今日生まれてもおかしくないくらいの大きさだ。」
「タイミングが良くなかったけど、仕方がないね。」
私は何と言えばいいのか分からなくて、黙々と解体を進めていました。
作業することおよそ1時間、、
可食部だけになってしまうと、見た目は肉屋さんで売られている肉とあまり変わらないですね。
ついさっきまで生きていた命が、肉として自分の目の前に存在している。なんだか不思議な感じがしました。
私たちがスーパーや肉屋で見る肉は、それが生きていたときの面影を全くうしなってしまっているんだなとも思いました。
生きている動物を殺して、内臓をかき出して、肉を取り出す光景は、もしかしたら「グロテスク」と思われるかもしれませんが、それが命をいただいて生きている私たちの現実です。
動物を解体するときの血生臭さも生温かさも感触も感じることなく、肉を食べることができてしまうのが、今の時代です。そんな時代に生きている私たちは、「命を頂いて生きている」という実感を得るのが難しくなっているのかもしれません。
現代に、生きている意味がわからないと感じる人が多いのも、「食べる」という行為を通して無目的な生の連鎖を感じることができなくなっていることが少しは関係しているんじゃないかと思いました。
解体した鹿肉は持って帰って綺麗に洗い、焼肉にして食べました。
塩漬けにしてから冷凍保存すると、臭みが消えて使いやすいです。まるで牛肉かのように調理できます。ミンチにして肉味噌素麺を作ったのがめちゃくちゃ美味しかったです。
今回、鹿を解体して食べるという体験を通して、「食べる」という行為についていろいろ考えさせられました。
「食べ物に対する感謝の気持ちを忘れてはいけない」というのは小さい時から何度も聞き慣れた教えですが、21歳にしてはじめて心から実感できた気がします。
頭で分かっていても心で分かっていないことってきっとまだまだあるんだろうなぁと思いました。
・・・・
拙い日記のような文になってしまいましたが、最後まで読んで頂いてありがとうございます!
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